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擦文文化は農耕文化で、日本人から鉄製農具を買って農耕していたのですが、鉄製農具の売買を日本人が禁止する様になり、それでアイヌ人の祖先は農耕ができなくなった

宇山卓栄の歴史の話は信用できるのか? _ 『アイヌ先住民族』をしつこく否定し続ける詐欺師 宇山卓栄
https://a111111.hatenablog.com/entry/2026/04/15/211748

 

中村恵子はアイヌ文化の成り立ちについて全く理解できていない。
アイヌ人は遺伝子では縄文人・続縄文人・擦文人と殆ど変わりません。
擦文文化は農耕文化で、日本人から鉄製農具を買って農耕していたのですが、擦文時代が終わってから、アイヌ人の祖先は日本人と対立する様になり、鉄製農具の売買を日本人が禁止する様になり、それでアイヌ人の祖先は農耕ができなくなったのです。それで、アイヌ人の祖先はニブフやシベリアの漁労民と交易する様になり、生業を農業から漁労に変えたのです。
アイヌ人の文化がニブフやシベリアの漁労民に近いのは、ニブフやシベリアの漁労民から漁労の方法を詳細に教えて貰ったからです。
それで、アイヌ文化は縄文以来の伝統を捨てて新たに間に合わせ的に作った文化なので、ウポポイみたいな場当たり的な要素が多いのですね。

鉄器の普及は続縄文文化後半(後北C₂D式から北大式、古墳時代併行)である。ただし鉄器が安定的に出土する段階、すなわち鉄器が本格的に普及する段階は擦文文化(古代併行)である。
擦文文化の鉄器の普及を竪穴住居址から出土する鉄器の出土率から考察した。その結果、擦文文化後期(11世紀ごろ)に鉄器の出土率ならびに一軒当たりの鉄器数が増加する。青森では9世紀後半に鉄器生産の急増に伴い、鉄器の出土も急増している。

鉄・鉄器の生産には専門的な技術が必要とされ、原料から製品に至るまでに複数の工程が存在している。
その結果、北海道では製鉄と鋳造は行われておらず、高い鍛冶技術を必要とする鉄器(刀剣や鉄斧など)は、オホーツク文化・擦文文化・アイヌ文化では生産できなかった。

第1回北海道WGミーティング
擦文からアイヌ ー農耕の縮小ー
https://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukasawa-01.pdf

東北大学大学院 国際文化研究科 深澤百合子

農耕の小規模化それとも・・・

禁農モデル

アイヌ社会においての農耕文化は擦文文化期以後アイヌ社会内の欲求により常に進展していたと考えられるにもかかわらず、「意図的なイデオロギー」によってその動きが禁止されるという、人為的行為によって阻害された結果、実践的な折衝としてアイヌ社会内で再生産され、その現象が変容した文化的要素として認められるようになったと考える。

これを禁農モデルと呼ぶ。

1786(天明6)年 佐藤玄六朗の報告
『蝦夷地之儀是迄見分仕候趣申上候書付』

「古来より蝦夷地において穀類を作立候儀は法度の様に相成り」

「先年イシカリと申候所の川上にて、稲を作り相応に出来在候処其段松前え
相聞、領主役人より申付候哉、又は商人共の仕業の候哉、籾、種子迄残ら
ず取り上、右作仕候蝦夷ともえは、ツクナイを出す為候由の風聞等之有り」

「田畑は少しも御座無き、去り乍遠方山中の蝦夷共は粟はムンシロ、稗はヒヤバと申、少々宛作り、則見および候処、農具等之れ無き候に付け、草木の間に種子を蒔き置き候のみ御座候得共随分相応に出来立て、夫食に相成候様子にて、其の所々蝦夷は臼、杵等も取り持ちいたし罷申候」

1857(安政4)年 『石狩日誌』松浦武四郎(1973年丸山道子訳)
「家のそばにはムニノカン(狸豆)、マーメ(いんげん豆)、ムンシロ(粟)、リテアママ(もち粟)、ヒヤハ(稗)などを作っているが、こういう農作業は女の仕事とされている。かれらはまだ鍬を持っていないので、まさかりの側面に木の柄をとりつけて鍬の代わりに使っているが、これは松前藩の方針で、かれらに農業を教えることを禁じているので、運上屋もアイヌには鍬を渡さないためである」

対雁方面では、大根ばかり作っていたので、なぜ穀類も作らないかとたずねたところ、そういう物はつくりたくとも鍬や種が手に入らない

「石狩川中流のトック(徳富)ベツハラの辺りでは場所の番人たちには見つからないように、(見つかると取り上げられるので)住居から少し離れた場所に、まさかりを利用して畑を耕し、いんげん豆、大豆、稗、粟などを作っており」

1857(安政4)年 『蝦夷草紙』最上徳内
彼の国法にて、蝦夷地への物の種を渡す事を停止なり。其故いかんといふ事を知らず」

「密かに按ずるに、蝦夷人農業に力尽くしては、干魚漁猟の産物も相減じ、請負人の交易も不足し、運上金も相減ぜんとの故なるべし」

耕作面積の縮小

1800年 68.0坪(224.4㎡)
1858年 33.3坪(109.9㎡)

(羽田野 1981)
1857(安政4)年 『石狩日誌』

松浦武四郎(1973年丸山道子訳)
松前藩の流言飛語
「アイヌが畑に種をまいたりすると、蝦夷地の神様が怒って悪い病気を流行らせるだろう。そうしたら、アイヌの子孫は絶えてしまうだろう」

「畑などを作ってアイヌの神の祟りで、病気になってしんでも良いというなら作れ、シャモのまねをして畑をどうしても作るというのなら、江戸のニシパのようにお前達もすぐにひげをそって、和人語を使え。
和人語を使うような奴はその名前を書いて弁天様の前で焼いてやる。そうすればすぐに死んでしまうからな」

安斉正人「対談:人類史の可能性」『現代思想』 1990
渡辺仁談
「樺太アイヌなんかも農耕などをうっかり真似してやると病気になるとか、子孫が不幸になるとかそういうことが言われていましたね」

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日本人はこうやって千島アイヌを民族浄化した
とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化―日本人が自ら葬り去った異文化―

アイヌ文化には三つの文化圏がある。すなわち「北海道」島に栄えた北海道アイヌ、樺太(ロシア領サハリン)島南部に栄えた樺太アイヌ、そして、中部千島・北千島(ロシア領クリール諸島)に栄えた千島アイヌである。
 このなかで、千島アイヌはそのひとを含め、文化・言語は今日にまったく伝わらないのである。国際交渉の陰で、しかもきわめて平和裡に、日本人は地上から一つの文化を葬り去ったのである。

「1884年の日露両国間の協定によって、樺太はロシアに、千島列島は日本に帰することになった。その後、日本は総人口わずか九七人のものが群島の各地点に分散している極北の新しい国民の憐れな状態に憐憫の情をもよおし、彼らを絶滅から救うことを願った。そのため、彼ら全員を、はるかに豊で気候も温暖なシコタン島へ移住させた。ここは蝦夷の根室地方とクナシリ島の間にあり、千島列島の最南端に位置する。しかし、憐れな彼らにとってそこが楽園となったであろうか。否、無益であった…」(鳥居竜蔵『千島アイヌ』序)。

 日露間で締結された「樺太千島交換条約」によって、樺太はロシアに割譲され、全千島列島が日本の版図となった。このとき、日本政府は先住民であるアイヌの人びとをも同時に自らの民に加えた。樺太アイヌは北海道に強制移住させられ、当初は樺太に程近い稚内のメグマに居住地が定められたが、じきに札幌近郊の対雁(ツイシカリ、現在の江別市内)に移された。

 シムシュ島、ホロムシリ島などに住む千島アイヌが移された先が、鳥居の序文にあるシコタン島である。

 このいずれもが、かれらがロシア人と通交をおこなって、結果的に日本に不利となる行為を働くことを危惧してのものであった。

 明治36年の戦争の結果、樺太アイヌはそれでも故郷に帰りえた。しかし千島アイヌは、そこが日本領土であったにもかかわらず、帰ることはできなかった。望郷の想いにかられながらも、かれらは北海道とその付属島嶼(島々)のなかで、みずからの文化を放棄せざるを得なかった。今日、千島アイヌの文化を伝えるひとはただのひとりも存在しない。


千島アイヌの強制移住
1884年(明治17年)に占守島や幌筵島、及び中部千島の羅処和島に居住していた千島アイヌの人々が色丹島に強制移住させられた。

移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。

因みに、生き残ったアイヌ人の青年は全員太平洋戦争で沖縄の最前線に送られ、そこで絶滅させられました。

 

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日本語・琉球語・アイヌ語の起源
https://a111111.hatenablog.com/entry/2026/03/15/055908

朝鮮語、日本語と琉球語の起源は南満州、アイヌ語は縄文人が話していた言葉だった。
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/11/03/143346

縄文語はアイヌ語、日本語と朝鮮語は南満州の西遼河流域で話されていた言葉だというのが現在の言語学の定説
https://a777777jp.hatenablog.com/entry/2025/11/19/122536

古代東北「蝦夷」はアイヌ語を話していた
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/12/13/103433

蝦夷の言葉は東北に残るアイヌ語地名やマタギ言葉の研究から、アイヌ語と同じだとされています。
https://a777777jp.hatenablog.com/entry/2025/12/31/164050

擦文文化は農耕文化で、日本人から鉄製農具を買って農耕していたのですが、鉄製農具の売買を日本人が禁止する様になり、それでアイヌ人の祖先は農耕ができなくなった
https://a777777jp.hatenablog.com/entry/2025/11/19/122333

日本語の「神(カミ)」の語源はどこから?アイヌ語・韓国語との意外な関係と3000年前の「接触」の謎
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/12/20/111101

最新のゲノム解析が明かした日本人の起源
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/09/03/090315

満州の「遼河領域」は『殷(商)王朝』の故地で、元々はツングース人ではなく黄河文明人を構成する民族が住んでいた地域です。
https://a777777jp.hatenablog.com/entry/2025/12/19/233232

最新の遺伝学研究では、弥生人の遺伝子は現代日本人と同じで、日本の縄文人とは殆ど混血していないのがわかっています。
https://a777777jp.hatenablog.com/entry/2025/11/22/130810

【最新研究で解き明かす】縄文時代はなぜ1万年も続いたのか?日本史最大の謎に科学で迫る。
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/09/20/040301

古事記・日本書紀よりも古い真実の歴史書『ホツマツタヱ』の正体
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/12/10/130419

出雲大社は元々スサノオを祭る神社だった _ どこから来たのか?スサノオの正体
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/09/26/005349

茂木誠 _ なぜ消された?物部氏の謎
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/12/04/184917

茂木誠 _ 日本の歴史
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/11/29/132932

茂木誠のスーパー歴史講義「日高見、エミシ、蝦夷共和国」
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/10/31/174539

茂木誠先生は、1~19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。
https://a777777jp.hatenablog.com/entry/2025/11/22/131731