角川新書の一冊として、KADOKAWAから2026年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしているので、この記事でも引用以外では「文明」とは表記せず、「文化」などに置き換えます。本書は、現代の中華人民共和国において、「唯物史観(史的唯物論)」という非科学的なイデオロギーによって、「文明」の成り立ちを客観的に分析できない、と指摘します。たとえば、古代王朝を「奴隷制社会」とするような歴史認識ですが、古代「中国(本書における地理的範囲は必ずしも明示されていないように思いますが、以下「」では括りません)」では奴隷は少数だった、と本書は指摘します。中華人民共和国の現在の歴史学では、本当に「唯物史観(史的唯物論)」のために客観的分析ができないのか、門外漢には疑問に思えますが、著者は専門家ですから、そうした見解もある、と受け止めておきます。

 本書の対象は新石器時代から戦国時代までとなり、紀元前6000年頃~紀元前221年までとなります。本書では、紀元前6000年頃以降の新石器時代初中期(集落の出現)と紀元前3000年頃以降の新石器時代末期(都市国家の成長)が原始社会、紀元前19世紀以降の二里頭文化(王朝の成立)と殷王朝(祭祀の盛行)と紀元前11世紀以降の西周王朝(封建制の開始)が初期王朝、紀元前8世紀以降の春秋時代(諸侯の自立外交)と紀元前5世紀以降の戦国時代(専制君主制)が春秋戦国時代と区分されています。本書では対象とされていませんが、秦漢王朝については、秦が極端な独裁制、前漢(西漢)が官僚制と封建制、後漢(東漢)が儒教理念の国家とされています。

 黄河中流域で最初の新石器文化は、紀元前6000~紀元前5000年頃の磁山裴李崗文化です。この時点では、集落や墓地で大きな貧富の差がなかった、と考えられています。これに続く仰韶文化では、前半期(紀元前5000~紀元前4000年頃)に集落が大規模化し、その周囲が環濠で囲まれるようになります。仰韶文化の大型住居からは、集落における指導者の出現が示唆されます。本書はこれを、軍事的理由と推測しています。農耕牧畜社会で戦争が本格化するようになった理由として、長期保存の可能な穀物や、「高級品」である家畜が略奪の対象になり、侵略戦争が合理性を有するようになったから、と本書は説明します。この戦争による強い圧力が革新を生み出し、「文明」の出現に至った、との見通しを本書は提示します。黄河中流域では、大集落の出現後に社会の変化が緩やかになったようですが、黄河下流域では、紀元前四千年紀の大汶口文化期に社会の発達が進み、貧富の差も拡大します。大汶口文化の副葬品から、指導者の資質としてまず軍事的要素が求められた、本書は推測します。

 黄河中流域では仰韶文化の後に龍山文化、黄河下流域では大汶口文化の後に山東龍山文化へと移行し、大きな集落(都市)が周辺の小さな集落(農村)を支配する構造が出現します(都市国家)。本書は、小集落(農村)の貢納と大集落(都市)の保護という互恵関係と、世襲権力の確立によって、支配が維持されていた、と推測します。ただ、世襲権力とはいっても、実際の血縁ではなく仮想の血縁で結びついた氏族内の継承だった可能性も、本書は指摘します。山東龍山文化では文字も出現していましたが、まだ解読されていません。新石器文化としては「高度に発達した」山東龍山文化で王朝が出現しなかった理由として、青銅器生産技術の欠如を本書は挙げています。青銅器は軍事力や生産力や威信を高めることができます。黄河中流域では、黄河下流域よりやや遅れて、紀元前三千年紀後半に都市国家が出現し、山西省の陶寺遺跡では青銅器生産が始まっていましたが、その陶寺遺跡でも王朝は出現しておらず、さらに別の要素が必要だった、と本書は指摘します。

 中国で最初に王朝が出現したのは黄河中流域の二里頭文化で、紀元前19世紀頃と推定されています。本書は二里頭文化において最初に王朝が出現した理由として、各地から多様な情報が集まったことを指摘します。二里頭遺跡は山東龍山文化と山西龍山文化の間に位置し、両者の情報を入手可能でした。さらに、二里頭王朝の「首都」と考えられる二里頭遺跡は、当時長江とつながっていた淮水の支流近くに位置しており、江南地域ともつながっていました。二里頭王朝は100ヶ所ほどの都市国家を支配していた、と推測されています。二里頭王朝では文字は確認されていませんが、後世に残りにくい素材に文字が書かれており、文字によって広大な領域を統治しており、この二里頭王朝の文字が漢字の原型になったのではないか、と本書は推測します。それは、殷代後期に見られる現時点で確認されている最古の文字(甲骨文字)に、現在の漢字の構造すべてが出現しており、完成度が高いからです。

 二里頭王朝を滅ぼしたのは、その東方に位置した下七垣文化勢力で、これが殷王朝です。支配体制が、新石器時代末には都市と集落の2段階、二里頭王朝では首都と都市と集落の3段階だったのに対して、殷王朝では都市と拠点と都市と集落の4段階になりました。殷王朝は紀元前14世紀中期に混乱して分裂状態に陥り、紀元前13世紀中期に再統一され、首都も鄭州から殷墟へと移りましたが、この混乱が二里頭文化派と下七垣文化派の内乱だった可能性を、本書は指摘します。殷王朝を滅ぼした西周王朝では、封建制と嫡長子継承が採用されたようです。

 こうした古代の権力と社会は、軍事的圧力による革新で発展し、信仰と儀礼によって維持されていた、との見通しを本書は提示しています。信仰は「非科学的」であるものの、そこには一定の「合理性」があり、より「合理的な」信仰の集落がより優れた競争力を有することになった、と本書は指摘します。文字資料によって信仰が分析できるようになるのは、殷代後期(紀元前13世紀後半~紀元前11世紀後半)からです。ただ、この間にも信仰の変化があり、当初は祖先を神格化した「祖先神」と、自然を神格化した「自然神」の両方が祀られており、その上位に「帝(上帝)」という主神(最高神)が設定されていましたが、帝への崇拝が急速に衰退し、祖先神、とくに先王への祭祀のみが残りました。こうした殷代の儀式には、ヒトも含めて動物を犠牲にすることがあったものの、それには王の宗教的権威や軍事的才能を誇示する「合理的」目的もあった、と本書は指摘します。

 殷王朝を滅ぼした西周王朝における信仰での大きな変革は「天命思想」で、西周王朝は信仰していた「天」を主神として位置づけ、天─先王─王という神話を構築しました。天命によって周が統治するわけで、この天命思想は後に皇帝制度を支えます。西周王朝では氏族とともに婚姻単位としての「姓」が採用され、「同姓不婚」とされました。氏族は社会集団としての機能を失っていき、世襲貴族が成立する中で、貴族の血縁集団が宗族と呼ばれるようになり、戦国時代には姓も機能を失っていき、宗族やその分家が姓として扱われるようになります。

 中国史における一大転機とも言われる春秋時代から戦国時代にかけては、上級貴族の没落、君主への権力集中、官僚制の強化が進み、戦争が激化し、貴族層の没落と対照的に庶民の地位が向上します。領地を慣習法で治めていた貴族層が没落し、成文法が制定されていきます。集権化と官僚制の強化によって大規模な兵の動員が可能となり、戦争が激化します。本書は、戦国時代に戦争が長期化したことも指摘し、防御施設の堅牢さが原因と推測しています。いわゆる諸子百家が戦国時代に出現した理由としては、君主のための政治思想や官僚制のための処世術が流行したことを、本書は挙げています。しかし、多様な思想は現れても、純粋な宗教は出現せず、地域全体で調停機能を有する宗教組織がなったことも、戦国時代に戦争が激化した理由ではないか、と本書は推測します。本書は、戦国時代に直接的起源を有する専制政治が長期間維持されたことに、中国史の特殊性を見ており、それはヨーロッパとも日本とも大きく異なる、と指摘します。